研究室案内 −A Guidance Of Department of Chinese Philosophy−

−當ページの目的−

當ページは、院生やOB等の個人的な意見ではありますが、中國哲學研究室に入りたいと思つている方に對して參考になればと思つて作りました。又中國哲學に興味がない方、或いは「中國哲學」なるものを當サイトにて初めて知つたといふ方に對しても當サイトを訪れる以前より少しでも「中國哲學」といふものに親しみを持つて頂けますれば其れ以上の悦びはありません。

中國哲學研究室のマスコツト

研究室のマスコット(名前を募集して早5年……未だ名無し……)

目次−Contents−

以下のリストから氣になる項目を(あれば)クリックして下さい。詳しい説明を見られます。

詳細説明−Details−

中國哲學研究室で何を學ぶか?
「中國思想」と聞くと、高校の漢文をやっている方は、『論語』『老子』等を連想される方がほとんどだと思います。中には現代の(赤い)イメージを抱く方もいるかもしれません。確かにそれらの書物は重要なものですが、対象はそれだけに限りません。というのも、中國の書物の特徴として、様々な方向からのアプローチが可能だからです。例えば『史記』という本は、歴史學の基本的文献ですが、人物を中心とした「紀伝体」という方法を用いているので、「人物をどのような表現で描いているのか?」とか、「その人物に対して著者はどのような見方をしているのか?」等といったアプローチができるからです。
なので、「中國の文化遺産に対して、思想的な興味を持って研究する。」というのがひとまずの答えではないかと思います。

目次に戻る

中國哲學研究室ではどのやうな授業が行はれているのでせうか
中哲の授業は演習形式が主体で、講義形式の授業は2コマあります。演習では、授業のテキストとなる漢籍について、訓読及び現代語訳、引用箇所の出典調べ、といったことをします。學部の授業では、教員免許状(国語)取得のための「漢文」の授業に配当されていることに配慮して、高校で「漢文」を教えるための訓読能力を身につけることを目指した授業もあります。
その一方で、大學院と共通の授業では他専攻の學部生にはやや取っ付きにくいであろうと思われるような専門的な授業もあります。授業の詳細については、學生便覧を参照の上検討して下さい、と言いたいところですが、あまりあてにならないという声もあります。また、授業に参加する學生の構成比率(他専攻、學部生の多寡)によって授業方針が變わる可能性もあります。

目次に戻る

中國哲學研究室を選択するときの「心配」に就て
A君が当研究室に入ることが決定したとき、「第1希望の○○研究室に入れなくて、第2希望だった中哲研究室に入ることになったんだけど…何となく興味はあるんだけど、『論語』とか読んだことないしなぁ…それに俺高校の時漢文苦手だったんだよな。そんなんで大丈夫かなぁ・・・」と思ったそうです。
実はこの研究室に入ってくる人は第2希望や他の専攻から転専攻した人が多い(というよりメイン)です。
それに第1希望でも、「中哲しかないっ!」と思って入ったというよりは、何となくの興味と、偶然の交差点が中哲研究室だったという人もいます。
ですので、入った早々の人に高い知的水準を要求することはありませんので安心して下さい。
そして現在は『論語』をはじめとして様々な本が日本語で翻訳されていますので、それを電車に乗っている間にでもそれを電車に乗っている間にでも読んで「何となくの興味」とうまくつき合っていけばいいと思います。(それに前述のように初學者用の講義もあります。)
漢文の読解力についてですが、高校の漢文では、文法に四苦八苦した人もいたのではないかと思います。大學で勉強する漢文は高校のそれとは違い、辞書を初めとした「工具書」や典拠となっている資料とのにらめっこに大半の時間を費やします。文法や言語に対するセンスが、全く要らないという訳ではありませんが、根気があれば何とかなります。
ですので、高校で国語(漢文)が苦手だった人も時間をかければかけただけの報酬を得ることができます。
それに先生方からは演習のとき、初學者に対しては無理なく実力を付けられるよう配慮していただけますし、もし研究室で勉強していて分からないことがあっても先輩たちが可能な限り質問に応じますので、心配は要らないと思います。

目次に戻る

「中國」で、しかも「哲學」だなんて、大變なことになつてしまひさうなのですが…
かなり語感が悪い、という意識は所属學生の中にもあります。と言うと、怒られそうですけど。
「哲學」というと、西洋哲學のイメージが強すぎて、所属決定の際に「中國」と「哲學」とに同時に興味を持つ學生が少ないのではないかと考えています。「インド文化學」(「インド哲學」から改称)のように名前を變えたら多少は印象が變わるのではないかとも思うのですが伝統的呼称ですから仕方ありませんね。
また、高校までの漢文教育にも「中哲」不人気の責任の一端があると思っています。
杜甫や李白に代表される漢詩が好きな人は「中國文學」を志すでしょうし、『三国志』の世界や「鴻門の会」に興味をもった人は「東洋史」へ行ってみようと考える…
その一方で、「中國哲學」に直結するのは『論語』というのが世間一般のイメージではないでせうか。その『論語』は、教科書でいきなり學びて時にこれを習う…と来ますから、第一印象の好かろうはずがありません。
そういったわけで、どうしても謹厳実直、封建的、といった印象がつきまとうのですが、意外にそうでもないことは、やってみるとわかります。
「中國哲學」という名前から受ける好くない印象と、高校までに培った思いこみを捨てて(これが一番難しいことなんですけどね)一度研究室を訪問してみてください。

目次に戻る

中國哲學研究室では中國語は必須なのでせうか
御安心下さい。
確かに中國哲學を専攻すると、卒業までに中國語を2単位取得する必要がある、という意味では必須です。そうしなければ卒業できませんからね。
但し、授業中に中國語がバシバシ飛び交うかというとそのようなことはありません。1年生の時に第二外國語で中國語を習わなかったとことから、中哲に不安を感じる人もいるかもしれませんが、そういう意味では必ずしも必要というわけではありません。中國哲學の授業においては高校でやっていたような訓読(=書き下し文)での読み方が中心ですので、中國語での読み方ができる人(留學生の方など)には、中國語読みをやってもらう場合もありますが、基本的に中國語読みを強制されることはありません。
ですので、もしもそういった不安を感じている皆さんは安心してもらって構いません。

目次に戻る

中國哲學研究室と「就職」との關係に就て
これは、文學部並びに文學研究科総じて言えることかもしれませんが、専攻の授業で身につけた知識が、就職後役に立つ可能性は残念ながらゼロに近いと言わざるを得ません。
(でも就職試験の面接の時、「中國哲學専攻」というのが面接官の興味を引き、「中國哲學って何をやっているの?」という風に話が進んでいくことがあるとか…(概ね負の意味合いを持つ質問ですが)他に話すネタがない人にとってはこれは一つの利点なのでは?こういった質問に的確に答えられるような方であれば、たとえ中哲だろうが就職は問題ないでしょう。)
ですので、この事に關しては覚悟を要求するところがあります。
ただ当研究室の先生方は學部生であれ院生であれ、就職希望の人に対しては研究室の活動が就職活動の妨げにならないよう最大限配慮していただけると思います。
なお、就職先は、先程言った事情から多岐にわたっていますが、比較的教職(国語)や公務員になる方が多いようです。(前述のように当研究室には漢文の先生になる人を念頭に置いた授業があります。)
補記:基本的に就職に就ては、研究室云々よりも寧ろ其の時の景気が大きく影響するものと思はれます。景気が良い時であればどの樣な研究室にゐようが何處かしらに就職は出來るものです。また、例へ就職に有利と(一般的に)言はれる學問を身に附けていようが、社会常識が身に附いていなければ、つまり人間として問題があれば就職することは難しくなるでせう。
中國哲學研究室に入ることで身に附く(と思はれる)社会に出て役立つ事柄といふものをあげてみます。他所の専攻のことはわかりません。
  1. おもてなし精神が身に附く。

    人が、「他者を渇望する」といふ經驗をすることは稀かと存じます。ところが中國哲學研究室といふ環境は人口が尠い爲、他所の専攻や學部からわざわざ授業を受けに來てくれる方に對する有難味は、人口の多い専攻所属者の比ではありません。御客樣は神樣なのであります。

    從つて、かういう外部の人に對して非常にサービス精神が旺盛になります。繋ぎ止めておくのに必死となる訣です。

    當研究室で出來る主なサービスといふと、勉強のお手伝い、コーヒー・紅茶或いはお菓子の提供などがあります。「飴と鞭」などといふ概念は存在しません。しかしながら學部生の身分では、畏れ多くもいきなり勉強を教へる等といふ事が出來る筈もありません。從つて、まづ自分が勉強する必要が發生する訣です。人間は、ただ漠然と勉強をするよりも、此の樣に目的意識を持つて勉強をする方が得てして效率的に勉強が進むものです。一石二鳥ですね。

    「お茶汲みなんて、けっ」などと馬鹿にしてはいけません。そんな精神的余裕もありません。繰返しますが、御客樣は神樣なのです。といふことは供物を捧げるのは当然の行爲でありませう。何にせよ、美味しいコーヒーや紅茶を淹れられた時など自分でも気分が良いですし、人に美味しいと思つて貰えれば嬉しいし誇らしい氣分になるものです。

    此樣な他人に對する或る種の「寛容性」(違)といふものはとても大切だと思ひます。勿論受け容れ放しでは問題がありますが。例へば、就職試驗に於る面接等で相手してくれる人は、自分の先輩となる人やもしれません。先輩からしてみれば、人懷つこくきゃんきゃんと擦り寄つてくる後輩はそれなりに可愛く感じるものです。「窮鳥懷に入れば獵師もこれを殺さず」といいます。

随分長くなつてしまったので、例示はこの位にしておきますが(尠)、他にも敬老精神や敬語が身に附きます。御要望がありますれば追加します。
最後に一言。「○○學部では就職は厳しい」「××専攻では(以下畧)」といふ樣な物言ひを就職試驗に望む前、或いは専攻を極める前にいふ人といふのは、結局自分が傷附かない爲の逃げ道を豫め用意しているのではないでせうか。責任転嫁といふことです。
昨今「實學」云々と叫ばれて久しいですが、本來「實學」などといふものは大學の理念とは對極に位置するするものなのです。また、例へ大學で「實學」なるものを學んだところで實社會に出て役に立つ保證は何処にもありません。
社會に出て役に立つ事といふのは、案外「大學で學んだ事(専攻)」つまり「結果」ではなく、「専攻に對してどの樣なアプローチをしたか」といふ「過程」の方なのです。社會に出て就職をして、自分の好きなこと(大學で専攻したこと)ばかり出來るはずがありません。興味の無い(大學の専攻とは異なる)仕事(部署)に異動することも同然あるでせう。
私は「中國哲學」に最初から興味があつた訣ではありません。しかし、専攻として中國哲學を選んだことで、中國哲學といふものを以前より少し知ることが出來、そして知る事に依つて興味が芽生えてくるといふ過程を辿りました。この過程は汎用性があるとは思ひませんか。ましてや「中國哲學」なんて大學以外ではまづ學ぶ機会は無いでせう。斯ういふ「特定の場所でしか學ぶことが出來ない學問」といふものはとても貴重です。
是非一度研究室に足を運んで下さい。
※至る處に論理の飛躍や誤解・勘違いがあるやもしれませんので、お氣附きになれば突つ込んで下さると有難いです。

目次に戻る